「あんな低俗な場所では生きてはいけないよ・・・」
自分たちを高尚だと思っている人が苦手だ。人に歩み寄ろうと少しもせず、自分の知っている世界だけで全てを判断し、自分と教祖たちこそが一番だと思っている。どんなに空間が澄んでいたってお前のような優しさの欠片も無い人間が世界を変えるなんて私は微塵も信じていないよ。
かといって、今日足を運んだ場所は、低俗すぎて胸の奥からウジ虫がゾワゾワとはいだしてくるような気持がした。調子に乗ったアナウンサー、気味の悪い演技、こんなところでは生きてはいけない。(さらに悪いことには、彼らは自分たちのことを低俗だなんておそらく思っていない。その可能性に対する自覚もあって、敢えてその道を神聖なるものとして選択しているのではなく、「考えたこともない」という部類。)
高尚といわれる場所にも居場所がない、低俗と感じる場所にも居場所がない。
それでは私はどのあたりに居たらいいのかな?
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ただ、35年間生きてきてしまったから、こんなときにどうしたらいかというコツだけはようやく掴めてきたんです。
こんなときに大事なのはね、「自分を責めないこと」。
自分を諦めないこと。自分の感じ方を、自分で非難しない。
こんなときに自分を責めて責めて責めまくって、すなわち同時に他の世界とそこにいる人たちのことも責めて責めて責めまくって、どちらも傷つけてズタボロにして生きてきたんです。
こんなときは、自分自身を大切に満たす場所へ行って、丁寧に傷を回復させる。
それが「善処」というものです。
自分を責めていないと、なんかヒマで、ぽっかり穴が空いて、その空いた穴の中で、なにをしていいかがわからないんです。だから不安で、心配で、またその穴の中を自己否定で埋めたくなるのですけど。
自己肯定を許してあげれば、例の高尚と本人たちが思っているところも、件の低俗で居られないようなところも、存在を許すことが出来る。
それが理想の「大人」ってやつ。
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高尚だから嫌なのではない、そこに自らの弱さを隠すから嫌なんだ。
低俗だから嫌なのではない、そこに真実がないから嫌なんだ。
ガラが悪くても心の繋がりがある方を選ぶ。お上品な嘘つきはくそくらえ。
かといってせっかくガラが悪くても、心の繋がりなんてひとつもない場合もある。
どちらも見た目だけではわからんのよ。