brance beansー痛い過去と新しい今へー

主人公ノブちゃんが痛い過去と向き合い今を創造していく過程です。本当は面倒くさい人間なのを、隠すのではなくて公開して向き合っていこうという企画です。

携帯運、機器運

 若さがなくなってくると同時に、偶然かもしれないけど、「携帯電話の運」がなくなってきていることを感じる。25歳の頃使っていたガラケーなんて、充電は3日に1回すれば良いくらい頑丈だった気がする。現在私はドコモのガラケーとアンドロイドのタブレットを同時に使っているのだが、ガラケーは1日1回充電しないともたないし、タブレットの方は昨年の使い方が悪かったせいもあってすぐに画面が消える。もちろんスマホの延長なので充電もすぐに切れる。たまたま選んだ品物が使えるものだったあの頃はラッキーだった。

 

 とはいえ、運、運とはいうが、単純に運だけで運が構成されているわけではない。全ての責任をなすりつけるわけにはいかない。私の過ごし方に問題があるのだ。タブレットに関しては、去年もう少し大切に使用していれば、現在の電源の落ちっぷりもう少しマシだったかもしれない。ものを大事に使う(乱暴にしない)というのは大切なことだ。少しのお金をケチって、ケースや保護シールの購入をためらったすえにしなかったのも良くない。「お金がない」という罪悪感から悪循環に陥る良い例である。

 

 文章を書くためにポメラDM100を購入した。ネットで買ったら翌日届いて嬉しかった。ケースと画面の保護シールも同時に購入した。今度は大切に使おう。

 

 ながお のぶこ

生命力のなれの果て

 「私は自分を公で表現して人と関係を築くことが苦手である」というと驚かれる。さらっとうまく馴染むことは出来るのだけど、自分が望むものを表出して相手に伝えて、自分の望む関係を築こうとする努力の方法がわからない。なにも望んでおらず、相手が嫌な気持ちにならなければそれで良いではないかと思っているからなのだが、そういった態度がまた相手を嫌な気持ちにすることもあるし、そう思っていたからといって、私のことを「乱暴だ」「不快だ」「ちゃんとしていない」「面倒だ」と嫌がる人も当然いる。

 その先に何かを求めてまで、大人になれば生きていかなくてはならない。それこそが、生命力というもので、みんな自然に携えているものだ。そのみんなが自然に携えている部分が、私は未熟でどうも上手く発揮できない。かといって当然自殺をするわけにもいかないので、なんとかこの課題に取り組んで私は生きていかなくてはならない。

 私は社会に、自分の人生に、そして自分の人生に深く関わる他人に、なにを求めているのだろう。

ホスト側としてラジオやってみたいのう

 昨夜は珍しくパーティーに参加してきました。プロのMCの方や、ラジオパーソナリティーの方がいらして、素敵でした。そういう「しゃべりの上手い素敵なプロ」を目の前にすると、私は興奮して自分も喋りたくなります。

 ゲストのお話を聞くという形のラジオ番組、やってみたい欲求が以前からありましたが、ますますその気持ちが高まり、ネットラジオなどの身近な形で実現していこうと考え出しました。しかしまだ、「『くまじまおもしろラジオ』いいねー。」と、1人でブツブツ言っている段階です。

 

 ながお のぶこ

「じぶんは特別な人間」と思っていたけれど・・・

 いきなり余談ですが、おもしろいもの、ちょっと間の抜けたものがすきです。美しいものはもちろん好きなんですが、それだけじゃいやだ。きもちわるい。得意でない。ゴマちゃんとかアザラシとか猫とか犬とか、横断歩道渡る熊とか、どうぶつとか、やさしいものとか、かわいいものがほしい。ゴマゴマ!

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 ここからが本題です。たぶん「育てられ方」によって、私は私自身をずいぶんと「特別な人間」だと思い込んでいたけど、そうではなかった。いや卑屈になっているわけでもなく、「人間は誰しもが特別!」という話でもなく、私が思い込んでいたようには、私は特別ではなかったのだと気付いたのが3日前。ぽっかりと浮かぶ秋の近い空の雲に、自分でも気付いていないうちに自分自身と成り代わってしまっていた存在を教わった。

 母は、私に「あまり女の子女の子していない風になってほしい」となぜだか常に願ったいたそうだ。実際そういう話も聞いていた。私は「あまり女の子女の子していない」存在へと成長した。それが窮屈なのではないかとハッとしたのも3日前。人は、窮屈だと気付けば、外の世界へ向かうための手立てを打つことができるけど、それに気が付かないうちは、変化を求めようもない。

 「ふつうのおうち」が羨ましかった。それがどんな家かといえば、こどもを「ちゃん」付けで呼んだりとか、名詞に「お」を付けて丁寧に言ったりとか、そういうちょっとした、気取りのある家だ。幼い頃よく母親に「お母さんはどうして、花に「お」をつけないの?」と質問した。母は「知り合いのこどもが、テストの時に、◎◎にあてはまる言葉を書きなさい、という問題で、「はな」と書かずに「おはな」の「おは」という部分を書いてしまったからだ」と言った。教育熱心であったわけでもない気がするのだが、これはいったいなんだったのだろう。

 

 気取ることが不徳であると学んだ私は、良い意味では「親しみやすい豪快なのぶこちゃん」として開花した。が、心の隙間は埋まることがなく、いつでも投げ出された「女の子」が声を立てずに見つめていた。

犬が星になりました

 約20年間実家に居た室内犬が息を引き取った。父方の伯母の家で飼いきれなくなったのを長尾家で預かったとき、私はまだ17歳かそこらの女子高生だった。

 最初のうちは父方の祖母が中心となり犬を育てていたが、その祖母は早々と認知症を発症し父の運営する施設へ。それが私が25歳くらいの頃。その頃まだ私は大学を出て、フラフラするという目的を果たすために東京に残っている。(正確には神奈川)

 サターンリターンと呼ばれる29歳のとき、まんまと私は実家である青森に引き返し、犬はまだ元気で実家に住んでいた。結局、母が主餌をあげているので、母に一番なついていた。

 そして私が35歳のいま、家族に見守られながら息を引き取った。

 

 私は「死」ということが、存在することはわかっているけど、それ以外は「死」についてなにもわかっていない。

 死んだらどうなるのか。どうして生まれてくるのか。どうして死ぬのか。生き物のしくみ。

 「死」が存在するということだけがわかっている。犬は今日保健所に引き取られて骨になる。まだ、肉も毛も目玉もついたまま、毛布にくるまれて横になっている。お腹をなでていると、一週間前のように、ひょっこり動き出しそうだ。

でもやっぱり死んでしまったものは、見た目は同じでも息をしておらず、動き出しもせず、声も出さない。

 

 

ながお のぶこ

交流と自己分析

 たった数時間滞在するだけなのに、ものすごくエネルギーを消耗する場所に、来週も行かなければいけません。心の交流の少ない場所は、会話の少ない場所は、私にとって地獄です。脂汗がにじむ。一度自分の中からアウトになると、ちょっと厳しい。でも来週で最後だから、感謝して終われますように・・・。

 

 このところ個性學に続き、星占術による自己分析を楽しんでいます。私は2ハウスにも6ハウスにも天体が入っていなくて、10ハウスは蠍座の天王星。つまり、独力でガンガン稼ぐ力が、少ないんだと解釈しました。(その通りだ。)

 

 その代わり、4ハウスがとても強くて、8ハウスには木星がある。(土星もあるが・・・)つまり、自分にとっての居場所に、他者を連れてきて大切にすればいいんじゃないかな。他者を大切にして、選抜して身内にして、安心して活躍出来る場を提供することでやっと充実して、やっとお金がまともに回るんじゃなかろーか。

 

 試行錯誤中です。いやー、人生も稼ぎ方もそれぞれですね。

 

ながお のぶこ